top of page
< 近田洋一・月桃忌の会 >

月桃の花

 

 

 「月桃忌の会」は、1950年代後期から2000年代初めにかけて、沖縄と埼玉の地で、新聞記者として反戦・平和を「ペン」に託し、68歳で死去したジャーナリスト・近田 洋一の遺志を継承し、暮らしの中に活かしていこうと活動する市民の会です。

 

 旧南洋諸島のロタ島で生まれ、激しい戦火を生き抜いて、家族と共に母親の生地・沖縄に引き揚げた近田洋一は、「戦後」とは名ばかりの不条理きわまる米軍支配下で少年期 と青年期を送りました。 人の温もりを大事にし、何よりも「平和」を愛する彼の生き方は、そのような時代が育んだものと言えるでしょう。

 

 一方で近田洋一は、寸暇を惜しんでは絵筆をとり、時には益子の窯場で陶作に勤しみ、地域の合唱グループに入って歌を楽しむなど、人一倍芸術・文化を愛する心の優しい人でもありました。「月桃忌の会」に集う私たちは、そんな彼の人間性に魅入られた、職業も年齢も異なるごくフツーの市民です。

 

 「月桃忌の会」の名称は、5月から6月にかけての若夏の季節を彩る、月桃の花に因んで名付けました。この季節は、沖縄が激しい地上戦に巻き込まれ、多くの命が奪われた季節 でもあります。晩年、近田洋一が精魂を傾けて描き上げた絵画『HENOKO』(100号)には、戦争への憎しみと、エメラルドに輝く辺野古の海に襲いかかる国家の野望が、 余すことなく描き出されています。

 

 会では、毎年近田洋一の命日前後に、彼の最期の地となった埼玉県内で次のような催しを開いてきました。

 

[月桃忌の会・これまでの催し]

 

2008年7月 「NO PASARAN  近田洋一さんを偲ぶ会」(さいたま共済会館)

         追悼集『ジャーナリスト 近田洋一の仕事』発刊。

2008年8月 「近田洋一さんをしのぶ会」(アルテ赤田ギャラリーホール/那覇)

2009年6月 第1回 月桃忌   月桃忌の集い(埼玉県労働会館)

2010年6月 第2回 月桃忌   「森口豁ドキュメンタリーで偲ぶ近田洋一」(埼玉会館)

2011年5月   第3回 月桃忌   森口豁写真展 

    『変わらぬ基地・続く苦悩  近田洋一の生きた時代』(さいたま市市民活動サポートセンター)

2012年6月   第4回 月桃忌 月桃忌の集い

2013年6月   第5回 月桃忌   「近田洋一の絵画と陶芸作品を鑑賞する集い」

       記念講演:丸木美術館学芸員・岡村幸宣さん(さいたま市市民活動サポートセンター)

2014年6月 第6回 月桃忌   没後10周年に向けての話し合い

2015年6月 第7回 月桃忌   「伝えたい!沖縄の今 辺野古チムグリ結歌の集い」

                                                         (市民会館うらわ)

​2016年6月 第7回 月桃忌 目取真俊講演会 (さいたま市市民活動サポートセンター)

                              

2017年6月   第8回  月桃忌 関根善一・沖田博講演会 (ギャラリー南風)

 

 

        <近田洋一追悼文 森口豁・ジャーナリスト=2008年7月4日、埼玉新聞掲載>                   

      手繰り寄せ続けた「希望」 ~近田洋一という男~

 

 別れの日、柩に眠る友、近田洋一さんに手づくりの小さなスケッチブックを贈った。好きだった絵を、いつでも、好きな時に描けるように、と。

 

 沖縄の公立高校を卒業し、18歳で琉球新報の記者になった彼は、33年間勤めた埼玉新聞を退職するまで、実に50年余の歳月をジャーナリズムの現場に身をおき、この国の果てしない矛盾と向き合ってきた。

 

 民衆をまなざすその瞳は山羊のように優しく、権力に向けられる眼光は妥協を許さぬ鋭さに満ちていた。女性や子ども、障害者、「在日」など、社会から軽んじられ、疎外された者たちとの強い結びつきの中で、真理を掘り起こす彼の仕事の質の高さは誰よりも本紙の読者が知るところだろう。

 

 でも、本人がほんとうにやりたかった仕事は新聞記者だったのだろうか。 違う。彼は絵描きになりたかったのだ。

 

 並みの力量ではない。寸暇を惜しんで描いた絵は趣味の域をはるかに越えていたし、この30年間、年初と夏の盛りに欠かさず送ってくれた自筆の絵はがきは、自然や海山の生類たちや人の命にこだましあって生きる「近田ワールド」を彷彿とさせた。

 

 「画家への志」が揺らぎ、「記者」として終生「現実」と向き合い続ける決意を固めたのは、琉球新報に入社して2年目、1959年の夏だった。沖縄を悲しみと怒りの淵に陥れた小学校への米軍機墜落事件。死者17人を含む210人のけが人を出したこの事件の取材を一緒に進めて間もなく、彼は僕にこうつぶやいた。

 

《やっぱり、この仕事辞められないよ、豁ちゃん。自分だけ好きなことやるわけにはいかないからね》

 

おおやけどを負った子どもたちの中に「世界一のヴァイオリニスト」を夢みていた少女がいた。火だるまのジェット機がその少女の片腕の自由と「夢」を奪った。 少女の無念な思いを自分のものとするには、新聞記者という職業を通して闘うしかないー。 彼はこう考えたに違いない。平和の問題にことのほか熱心だった理由も同じだろう。

 

 新聞社の仕事から解放され、ペンを絵筆に持ちかえてわずか2ヶ月余。「これからは好きな絵に専念できる」と喜んで話したその「趣味の絵」とて、近年はイラクやアフガン、そして基地建設に揺れる沖縄・辺野古に材をとったものが増えていた。

 

 でも、どんな絶望の中にあっても希望を見出そうと心血を注いだ。言葉に、文章に、そして絵筆に、丁寧に丁寧に手繰り寄せたその希望が、周囲の者を励ました。

 

 戦争、貧困、差別••••••。果てしなく続く絶望の中で、命の尊さを訴え続けたこの人の「不在の存在」のあまりの大きさに、僕はたじろぐ。 

 

 

 

                          

      

bottom of page